やくざ映画・任侠映画の総点検

 大衆に愛され続け、しかも不当な扱いしかされなかったいわゆる“B級映画”に照準を合わせ、その生成と哀滅をたどりながら証す大衆文化論。  

            


最後の侍・市川雷蔵

 出演第六作目に当る主演作、昭和三十年の『次男坊鴉』(弘津三男)は、そういう意味で彼のはまり役であった。旗本の次男坊が勘当されてやくざとなる。つまり、武士崩れの渡世人である。気ままな生活に満足していた或る日、兄の急死にあい跡取りとして実家に帰らなければならなくなる。実家に戻ってはみたものの、昔の生活が忘れられない。ところが、渡世人時代、恩をうけた親分が殺されたと知るや、もう一度長脇差を手にし、やくざにもどって仇討ちをする。戦前松竹加茂で作られた『お静礼三郎』の再映画化である。

 雪の降る中を三度笠に道中合羽で行く雷蔵の美しい姿、ガラスのような物腰、育ちの良さを感じさせる清潔なムード、これまでにない美しい股旅映画であった。〽どこへ飛ぶのか次男坊鴉 肩にみぞれの降るなかを 白根一男の主題歌も細く物悲しく、ピッタリと映画にマッチしていた。

 続く『次男坊判官』(加戸敏)の遠山金四郎、『鬼斬り若様』(安田公義)の松平長七郎、『綱渡り見世物侍』(加戸敏)の二役物、『いろは囃子』(加戸敏)のやくざ物、『強盗と判官』(加戸敏)の遠山金四郎対鼠小僧(勝新太郎)、三十一年『又四郎喧嘩旅』(田坂勝彦)の山手流明朗浪人「又四郎行状記」物と、雷蔵の若さ、とぼけたおかしさを生かそうとする、気軽なムードのコメディ時代劇があるが、決定打は出ていない。

 わずかに、『いろは囃子』での、やくざから足を洗おうと家に帰った主人公の日常生活の怠惰な描写と、ラストの材木置場での乱闘が印象に残っている程度で、お話としては、アイデアマン小国英雄脚本による『強盗と判官』がやや面白かった。遠山の金さん対鼠小僧の二人旅に弥次郎兵衛、喜多八の両コメディアンをからませ、さらに目明しの扮するにせ鼠小僧まで登場させるという奇想天外な道中記物の佳作ではあったが、演出力が弱く、笑いの少ないものとなってしまった。(小国は次の年の三十一年、長谷川一夫のために同じ鼠小僧の大傑作『鼠小僧忍び込み控』(加戸敏)『子の刻参上』(田坂勝彦)を作っている)

 三十一年の『柳生連也斎・秘伝月影抄』(田坂勝彦)と『浅太郎鴉』(三隅研次)は作品的にはさほど優れたものではないが、雷蔵にとっては記念的な作品であった。

 『柳生連也斎・秘伝月影抄』(五味康祐原作)は、市川雷蔵デビュー以来初めての冷たく硬質な役柄であった。彼の顔からはそれまでのとぼけた味は消え、剣に生きる暗い男の翳りと、ナルシストのような冷えきった美しさが現われていた。しかし、この作品は当時の大映時代劇路線からいえば、実験的意味をもった大失敗作であり、原作のもっている精悍で陰湿な雰囲気を出すまでには至らなかった。戦後時代劇の悪しき欠陥である「剣戟ショー」といった考え方が露骨に現われていて、殺人の暴力性や、凶器を持つ者の凶暴な衝動や怨念など、現在なら当然の殺戮の論理をもっていなかったのである。時代劇本来がもっている剣(武器・凶器)の意味、斬られ方(死に方)の美学、斬り込み、対決などの行動の哲学が映画の中で追及されるようになるのは、もっと後のことである。